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エフテック基礎講座1「エフテックの歴史」

創立

創業者 故・福田治六

創業者 故・福田治六

1947年7月 福田治六が埼玉県草加市に「福田製作所」を創立
創業日に仕事を始めて1時間程度過ぎた頃、表の通りが賑やかなので外へ出てみると山車や神輿が練り歩いていた。氏神様の祭礼と知り治六と妻は驚いた。会社の創立記念日と氏神様の祭礼の日が重なり、あたかも町中が自分達の門出を祝ってくれているようであった。
福田製作所の仕事は、雑貨やブリキ玩具部品のプレス加工の仕事を平田プレス工業(現エイチワン)から受託し、創業当時は蹴飛ばしプレスと呼ばれるマシンを使用し加工していた。
その後、1959年に本田技研工業と取引を開始し自動二輪車の部品製造を手がけるようになった。当時は25~150トンクラスのプレス機を7~8台使用し、生産をしていた。

創業時の逸話 ~男と男の友情物語~

治六が自立し創業を開始するまでの数年間は平田源七社長が経営する平田プレスに勤務していた。平田プレス在籍時には平田社長から「あいつは人の3倍働いている。給料を3倍にしてやれ。」と言われる程可愛がられたそうだ。
平田プレスから独立後も治六は平田プレスとのビジネスを続けていった。ある時平田プレスが予想外の受注減で資金的に苦しくなり不渡りを出す直前まできた時があった。  
急遽開かれた債権者会議の席上、司会者より指名を受けた治六は次のように発言した。「今の自分があるのは全て平田社長のお陰、私の債権100万円は奉納致します。」
その発言を機に平田プレス工業の債権は株式化されることになり、平田プレスは債権の返済を免れ、経営危機を乗り切る事が出来た。

Hondaとの取引開始

債権者会議から数年経ったある日、平田社長が治六を誘い、本田技研埼玉製作所に連れて行った。本田技研購買担当課長とのミーティングにてスーパーカブのフォークトップブリッジのコストと、品質についての困り事の相談を受けた平田社長は治六にその解決に取り組むよう要請した。
治六は昼夜を分かたず知恵を絞りコスト低減と品質向上の両立が出来る部品仕様への見直しを続けた。
当初の設計によるとフォークトップブリッジは一枚の鉄板をプレスで深絞り加工する部品であったが、治六は一体型の製品を3分割し、溶接する仕様へたどり着いた。
これにより品質は向上し、製品価格も現行の180円から90円へ下げても十分採算が取れる部品仕様とし、試作品を平田社長のもとへ持参した。
平田社長は治六を再度本田技研埼玉製作所へ連れて行き、製品の説明をさせた。本田購買担当課長はそのアイディアに大いに喜び、直ちに平田プレスへの注文書を作成した。そこで平田社長は担当者に注文書を返し、「この試作品はここにいる福田が作りました。この注文書の発注先を福田製作所に書き換えて下さい。」と言ったそうだ。
最終的に本田も納得し、福田製作所宛の注文書となり、本田技研との取引口座を開設する事が出来た。
埼玉製作所の門を出る際、平田源七社長は治六に言った。「債権者会議での君の一言が平田プレスを救ってくれた。今日の注文書、本田との取引開始で債権者会議での借りは返した事にしてくれ。」平田社長は債権者会議での治六の一言に感謝し、本田技研工業への扉を開けてくれたのであった。

四輪進出そして経営危機

1964年に社名を福田プレス工業株式会社に変更した。1965年に四輪用部品の開発に着手、1967年に軽自動車のN360やTN360用部品製造を開始。厚さ8ミリもある部品の加工は、当時0.6ミリ程の鉄板を用いた2輪マフラーの仕事がメインであった福田プレスにとって不可能と思われたが、試行錯誤を繰り返し生産を実現させた。
1969年には空冷式エンジンを搭載したH1300の部品製造を開始した。しかし、空冷式エンジンは時代に合わず、H1300の販売不振により福田プレスは経営危機に陥いる事になる。後に二代目社長となる福田秋秀は当時の事を「正直いってつぶれる寸前だった」と振り返る。
仕事がなくなる中、秋秀の伝をだどり、石川島建材工業に掛け合いコンポデッキ等の幅広い建材の仕事を手掛け、危機を乗り切った。
その後当時世界一厳しいといわれた排ガス規制法である「マスキー法」をクリアしたCVCCシビックの大ヒットにより、福田プレスは本来の自動車部品製造業務に戻る事が出来た。

最先端への『チャレンジ』

福田プレスは1978年、手狭になった草加の谷塚工場から久喜工場へ移転する。その際、秋秀は効率・品質・採算等、様々な面でワンランク上へのステージへ上がることのできる一貫加工体制の構築を目指した。
一貫加工体制とはプレス・溶接・塗装・組立の全てを自社で行うことである。次々に最先端の設備を導入する中、当時のどこの自動車メーカーも導入していなかった「カチオン電着塗装」を国内で初めて生産ラインに導入。
このカチオン電着塗装は、通常の塗装と違い電極を利用し化学反応で塗装することが可能になり錆を防ぐことができる。
その先進性は、モノづくりに携わる人たちの間で大いに話題になった。
その後エフテックは、パイプをプレス金型と液体の圧力で加工する「ハイドロフォーム技術」、鉄とアルミ等の異材接合を可能にする「FSW(摩擦撹拌接合)」等、他企業に先駆けたユニークな技術を採り入れるチャレンジし続ける企業へ成長していくことになる。

海外へ

時は流れ、1982年にホンダはアメリカのオハイオ州に工場を建設。それに追従するように福田プレスも初の海外拠点の進出を検討しはじめた。
最初ホンダのオハイオ工場近くに建設を検討したが、秋秀はその土地にピンとこなかった。
そこであえて北上・国境を越え、カナダへ入り、いい土地を見つける事が出来た。当時アメリカに比べカナダは土地が安く、カナダドルも安く、経済合理性を考えると充分採算が合った。経営者の感性が経済合理性をも味方にしたのだった。そしてエフテック初の海外拠点となるF&P MFG.,INC.が誕生した。
その一年後、1987年に福田プレスはエフテックと改称、グローバル企業として第一歩を踏み出した。
1993年、北米でビジネスを拡充させるため、そしてアメリカホンダの増産に対応すべく改めてアメリカ進出を検討、オハイオ州トロイにF&P AMERICA MFG.,INC.を設立した。ちなみにこの時の秋秀は「今度はアメリカが呼んでいる」と感じたそうだ。
こうしてエフテックはホンダをはじめとしたお客様のニーズに応えるべく、北米・アジアを中心に次々に海外拠点を設立、真のグローバル企業へと成長していった。